昨日のポケモンおしゃべりPC
パソコンであそぼ01。 閉じると、けっこう ”のっぺり”してます。 昔のワープロくらいに重いし、3Dピカの出っ張りが激しいので、持ち運びには不向き。 ノート型の利点は、一体、どこへ消し飛んだのか
な? でも、可愛いので、O.K♪
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何と3年越しで読ませていただいている、加持さんの『Leaflets of the Rikyu Rat』
(ファンです! てへ♪)、2003/10/30の記述を見て、感想。
『我々の経験はすべて言語を通して行われる』?
私は No! と答えます。 視覚の言語化は杜甫なんかがやっているけど、匂いや痛みの記憶なんて文章化することさえ困難ですから。
ただし、これは脊髄反射の回答です。 言語屋としての私は、
「ここで前提となっている”言語”とは? ”経験”とは?”」
と、質問したくてたまりません。 タームの厳密な定義付けなしの論考は、多くの場合、暇つぶし以上の役に立たないからです。 『朝まで生テレビ』の議論(?)を想像して頂けると、分かりやすい。
というわけで、
『言語が思考するために必要不可欠なものであるということはもはや誰も否定しない』
という論も、”思考”という術語の定義によりけりだと思うことです。 たしかにキリスト教的には、言語なしの思考はありえません。 『はじめに言葉ありき』ですから。 デカルトによる神の存在証明も、言語が介在せねば成り立ちません。
ところで、教会では、動物に amima「魂」も spirito「精神」もないと習います。 ヤツラには言葉がない(
???)。 だから、「思考」なんてありえない、器械のようなものだというのです。 こういう話を聞くと途端に、クリスチャンを止めたくなります。
動物に魂がないなら、クジラ漁を解禁しろよッ!
でも、この怒りも脊髄反射のなせるわざでありまして、キリスト教的”魂”、”精神”、”思考”、”言葉”の定義をよく見れば、なるほど納得: ”へぇボタン連打”なんですね。
…
話が逸れましたが、ようするに私の主張は、
「序論で術語の定義付けするのを忘れないでね♪ でないと、論点ズレた反論が、後から雪崩れ込んでくるから…」
ということなのでした。 ではでは、
加持さんの場合、教授がコレを事前に定義していた
、と、
確信しつつ♪ まりぃ。
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