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”私”という名の”彼女”

 

”彼女”は私であり、”私”は彼女である。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 



 
2002年01月20日(日) 熱傷と私(3)



(こちらから先にどうぞ♪)



帰国の翌日、初めて日本の外科を受診。(注1)
私の傷を見た看護婦と医者は、思いっきり眉をしかめた。
火傷の範囲が広いのだと言う。
熱湯を被ってから丸2日が経過。 もう皮膚の再生が始まっていたので、豚皮も間に合わないと言われた。
ケロイドが出来るだろう。 痕は一生残るだろう、とも。(注2)
全治一ヶ月の重傷だった。(注3)

土日も含め毎日通院して、看護婦さんにガーゼを取り替えて貰う。
そんな日々が何週間も続いた。(注4)

 ===


さて、私は痛みに強い女だ。
だから最初の4日間、痛みの時期は、割合、楽にクリアできた。
(例え、オーバードーズ気味にバファリンを飲みまくっていたとしても、だ。)

だが、その後に続く一週間は地獄を見ることとなる。
痛点で感じるもう一つの感覚が私を襲う。 それは痒みであった。


痛みが退いて来た頃、右脚全体を無数の蟲に食われているような凄まじい掻痒感が来た。
レスタミンに混ぜたステロイド軟膏を塗り、セルテクトを処方して貰ったが、それでも痒みは止まらない。

   掻きたい! 掻きたくて仕方がない!

しかし、包帯の上から患部を掻き毟ったりすれば、折角、出来かけた新しい皮膚がずれる。
肥厚性瘢痕をこの手で作る。 将来の自分を自らが責めることになる。
だから私は右脚をガンガン叩いた。 包帯が動かないよう、大腿に対して垂直に叩く。
その時、痛みは甘美な麻薬のように思えた。 痛みさえ感じていれば、痒みが紛れた。

眠る時には、右脚に布団をまきつけ、幾重にも縛り上げた。
寝ぼけて包帯を掻けば、全ての努力が水の泡だ。
そして私は眠ることに努めた。
眠っている間だけは、痒みを忘れることが出来た。
しかし毎日朝は来て、同じ苦しみが私を待っている。
エンドレス?
いや、”同じ” ではなかったのだ…。



事故から一週間後、私は部屋が臭いことに気づいた。
雨の日の犬のような匂い、浮浪者が近くに来たときのような匂い。
生ごみのような、耳クソのような、臍のゴマのような異臭。
それは、私の脚から漂ってきていた。 気が遠くなった。

私は非常に鋭い嗅覚の持ち主で、自分の身体の匂いに対しても鼻が慣れない。
一週間、洗っていない私の右脚は、新陳代謝の副産物である垢で埋め尽くされていた。
その死んだ細胞と軟膏とが雑じりあい、えも言われぬ臭気を放つ。


   『自分がクサイ』 

この事実に私は、さめざめと泣いた。
時には涙を流しながら、
 「もう、こんな脚、要らない!」 
とさえ叫んだが、そのすぐ後、事故や病気で脚を失った人の悲しみを思って恥じた。
自業自得の苦しみの中、私はただただ情けなかった。




(あとちょっと続く)


 === 脚注 ===

注1: 本来ならば皮膚科にかかるべきなのだが、自宅の真ん前の総合病院に皮膚科がないので外科を選択。
車で30分程の距離にある横浜労災病院皮膚科は、全国レベルで有名なのだが、通うのが面倒なので止めた。
この怠慢さを両親に罵倒されたことは、言うまでもない。

注2: 形成外科で植皮をすればケロイドは消せるが、保険が利かないそうだ。
もっとも私の場合、驚異的回復力のおかげで、スベスベの皮膚を取り戻すことが出来た。
プロミネンス模様の刻印も、タトゥーだと思えばカッコいい♪
神様に感謝!

注3: 中国では、全治2週間と診断されていた。
四千年の歴史が培う、楽天性に乾杯!
日本では、最初、シャワーで抉った箇所がIII度の熱傷と誤診されたことも、ちょっとだけ暴露。

注4: ここの注1に掲載している診断書では、
計18回の通院加療
となっているが、これは医師の処置を受けた日のみの計算で、看護婦によるガーゼの交換は含まれていない。
 





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